ラジオ生放送後、急いで行ってきました✨
金澤翔子さんの書展*
1時間という短い時間での鑑賞になってしまいましたが、今日しか行けるチャンスがなかったので、本当に行けて良かったです。
写真は、禅語「大哉心乎」
この四文字の中に「仏」が見えるかという禅問答です。
私は翔子さんが生んだ書のおかげで、初めて、仏様が見えたように思いました。
美しいものを見れば、人は自然と浄化される。
ふと涙が出てくるのです。
何かこう感じたからと具体的なものがあるわけではなく、美しさに洗われて、気持ち良くしていただいた気持ちが行くところがなく目に溜まる感覚です。
「泣く」とか「涙を流す」とか、そんな人から察してもらうものではなく、ただただ溢れそうな満たされた状態が続くのです。
何度も何度も、作品にドキドキする。
人を感じるというのは、ドキドキするものです。
何気なく過ぎてしまうコミュニケーションでは、その場楽しく、その場朗らかに過ぎて行くものです。
それが悪いというわけではありませんし、それが日常なのですが、
その人の大切にしている心に触れると、楽しいとは違う、何ともドキドキする感覚があります。
作品というのは心がストレートに伝わってくるように思っています。
お会いしたことのない金澤翔子さんと作品を通して、今日出会い、人となりを私なりではありますが、すごく感じさせていただきました。
満たされた思いをありがとうございました。
なんでしょうね。
ポスターにもあるように
ダウン症の書家という肩書き…
中には、言葉が悪いのですが、ダウン症でありながらとダウン症であることをマイナスのように捉え、それなのに素晴らしいというように捉える方もいるのかもしれません。
ただ、こんなに素晴らしい方がいて、実はダウン症も持ち合わせていたと、あえてつけなくてもいいのではとも私は感じます。
または、ひとつの素敵なアイデンティティとしてプラスの意味で捉えるのであれば、それもありなのかなと。
今、世の中は、この肩書きをどうやって捉える方が多いんでしょうね。
だんだんと何が普通なのかが分からなくなります。
翔子さんが築き上げてくださっている世界は、本当に美しくて、感じていると、自分の足りなさを恥ずかしく思うくらいです。
教えていただくことが多くて、まだまだ私は生きて学ばなくてはいけないと思うのです。
よく「障害のある方は心が綺麗で、純粋で、まっすぐ」などと言う言葉も聞きます。
そんな言葉でまとめていいのでしょうか。
私も特別支援学校に勤めていた頃、
他の校種の先生から「特別支援てどんな感じ?」と聞かれると、「子ども達の心が綺麗」などと表すのは、ひと言ですごく簡単で、そう応えることもありました。
これは褒め言葉ではなかったのだと、反省します。
こんな言葉を使って、何か敷居を作ることで、私たちは「自分とは別の、なれない存在」にしてはいないかと。
そんなふうにしていたら、尊敬するのを忘れてしまうのではないかと。
障害が心を綺麗にしたのではなく、ひとりの個性として私たちが見習いたいと思う存在の方は、偶然にも障害を有している方が多かったということではないでしょうか。
書展では、何度も何度も、皆様に感謝という言葉が続かれていました。
大切なことを気づかせていただいた
金澤翔子さん、そしてお母様に心から感謝です。
帰りに「還」という書のハガキを買わせていただきました。
この文字は、私の目標でもあります。
小さい頃から、
「優」という字は「人」に「百」の「愛」だと、母に教わり、そういう人になりたいと思い生きてきました。
ただ、気がつくと、いつも愛するより愛されて、助けるより助けられてしまうのです。
私が書いた小学生の頃の文章、中学生の頃の文章、高校生の頃の文章に共通して似たような言葉が出てきていて、
もう十分大切にしてもらったから、これ以上大切にされなくていいから、周りの方に今までの感謝をかえす、と。
この人生、還すために生きているので、それが終わらないとまだまだ死ねないなぁと思うのです。
翔子さんの「還」は、涙が出てしまいそうなので、あんまり長くは見られないのですが、私にとって灯台の役割をしてくれるように思っています。
大切にさせていただきます。
金澤翔子さんの書展
9月30日まで上野の森美術館*
http://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=225
今日はAfter*paletteをお届けする日でしたが、それはまた今度♪
思っていることを羅列してしまいましたので、読みにくい文章だったと思います。
お付き合いいただき、ありがとうございました(*^^*)
ではでは、おやすみなさい(*u◡u*)✨
素晴らしいレポートを、ありがとうございました。私も行かれそうにないこの予定のなか、ありがたい。
返信削除私は、大学の専攻が特別支援なので、昔からよく障害とはなにか、という議論がありました。個性、という解釈は私にはあまりわからない。出身地や人種などと同じ、条件なのかな、と思っています。近い条件の人同士に共通点があるのか、それは解釈による。鳥のように空を飛べない、という視点をもてば、人は全て障害がある、ということになります。
私は、障害がなかったらその方がもっと素敵かどうかはわからないと思います。そして誤解を恐れずに言えば、もしかして医学的心理学的なトラブルがあったからこそ素敵になる場合がないとも言えない。
私は、たくさんの障害をもっていると自覚しているけれども、それがあったからこそ今の自分がある。優さんの言う「心がきれい」は、ハズレではない。なぜならガードがないから。人によく思われたい、といった飾りが少ないから。私達は知的な活動として要らないことをたくさん覚え、やろうとしているみたいです。
トラブルに良し悪しの評価を与えるのは人間、障害のために人と人が、人と社会がわかり合えない、馴染みにくいことがあったとしても、その解消はある、もつと言われている方だけの課題ではない。その方はおそらく、もう十分たくさんの格闘を経て、バトルの中でそこに生きている。何かすべきなのにできていないのは、ない、持たないと言われている方なんではないですかね。翔子さんの芸術的なメッセージを感性で受けとることができたら、そこに障害はないでしょうし。
中途失明(失聴だったかなぁ)の方に対して、障害者団体の方が「ようこそ、豊かなコミュニケーションの世界へ」と迎えていた講義をきいたことがあります。もっと知らない世界をたくさん教えてもらいたいと思いました。独自文化がたくさんあるらしいですよ❤